chapter.1-1
SIDE:Keith
PLACE:Wilhelm Corporation本社
同日午前八時。
「……ここか。」
今日から自分が勤めることになる対PSI専門捜査局、通称PSIB。その局——と言ってもぱっと見は単なる近代的なビルの一つに見えるが——へとやってこれば、フロントロビーの受付に声を掛ける。
「すみません。」
「はい、何か御用でしょうか?」
人当たりの良い笑顔を浮かべた受付職員に真新しい職員証を見せ名前を伝えれば、「ああ、新人さんですね!担当に連絡をしますので、そちらで少々お待ちください。」と、ロビーの一角にあった待合スペースへと案内されたのだった。
そうして暫く窓越しに街並みを眺めていれば、どこからか慌ただしくこちらへ向かってくる足音がして、そちらへと視線を向けた。
「新人さ~ん!」
そう言いながらこちらへ駆けて来たのは若草色をした瞳の女性で、自分を“新人”と呼んでいたことからも、彼女が自分の上司ないし、先輩などに当たる人物なのだろうと想像できるだろう。
「初めまして、キース・ブランドナーさんですよね。私はハンナ・スコットです。どうぞよろしくお願いします!」
「……よろしくお願いします。」
そう言って片手を差し出した彼女に応えつつもこちらも簡素に挨拶をして。そうすれば、「案内します、ついて来て下さいね。」と言った彼女はロビーの奥へと歩きながらも話を続けた。
「これから暫くは私がキミの教育担当をさせていただきますから、分からない事があれば何でも聞いて下さい!」
「分かりました。」
「……えっと、確か入職前に説明会?オリエンテーション?があったんですよね。ある程度ここ<PSIB>についてとか、仕事内容は聞いた感じですかね……!」
「はい、まぁ……、それなりに。」
「そ、そうですよね!えっと、…………あ、キースさんはどうしてうちに就職をされたんですか————って、これじゃ面接だぁ……。うーん……、それに、やっぱり堅苦しいのは話し難いな……。まいっか。」
「……。」
エレベーターホールでの待ち時間、そわそわと落ち着かない様子な彼女は大きな独り言を溢していて、さらには一人で落ち込んだように肩を落としていた。とは言え初対面でこちらから話を振るのも新人らしくないだろうし大人しく黙っていれば、程なくしてエレベーターが到着するだろう。
到着したそれに先に乗り込んだ彼女は二階行きのボタンを押せば、瞳だけをこちらへ向け口を開いた。
「キミや私が所属をする執行部のオフィスは二階なんだ。他にも医療関係専門のフロアや研究フロアがあったりするんだけど、それは後で案内するね!」
「分かりました。」
「うんうん、じゃあ一旦キミのデスクに案内するから、荷物を置いてから局内ツアーにしよう!」
目的フロアへの到着を知らせる軽い音が鳴って、タイミングよく開いたドアの先。彼女に案内されるままに進んでみれば、そこにはインダストリアル調でモダンな造りのオフィスフロアが広がっていて。ドラマや映画なんかにも出てきそうな程洒落た様子には思わず瞳を瞬かせ。
(流石、天下のウィルヘルム傘下なだけあるな……。)
そんなことを思いつつも彼女の後を追った。
「ここが給湯室で、この横が資料室ね。で、あっちが会議室で——、キミのデスクはここ!」
机と椅子、それとノートパソコンが一台置かれているだけのシンプルなデスクを指して彼女は言葉を続けた。
「必要なものは追々発注すればいいとして……、一旦は荷物を置いてもらって……、あ、ロッカーはこっち!。」
慌ただしくフロアを動き回る彼女について回って、暫くすれば大体は把握できたのだが————
「うん、このフロアはこんな感じかな。ここまでで何か質問はある?」
彼女にそう聞かれれば、純粋に気になっていた疑問を口にした。
「フロアについてじゃないですけど、他の職員は……。」
そう、デスクは自分のものの他にもいくつかあって、そのほとんどが使用感のあるものだった。しかしながら、とっくに始業時間を迎えているであろう現在でもこのフロアはがらんとしているものだから不思議だったのだ。
そんなこちらの心内を察したのか、ハンナは気まずそうに頬を掻いて口を開いた。
「あ~……、確かに、気になるよね!ごめんね、執行部ってキミを入れて十人しか居なくて、日中は特に出払っていることが多いんだよね……。」
「忙しいんですね。」
「うん、まあ…………、あはは…………。あっ、でも外回りが少ない人は別フロアに居るかもだし、案内途中に見つけたら紹介するよ!」
「現場主義な部署だと聞いていましたけど、外回りが少ない……、そういう場合もあるんですね。」
「うん、基本その人の能力——あ、これはPSIに限らずね。それぞれに合った仕事を割り振られるから、例えば暴動鎮圧とか犯罪対応が主な人もいれば、局内での分析調査が主な人も居るし、怪我の治療とか……後方支援が主な人も居るよ!」
「へえ……、そういうものなんですね。」
「うん、まさにケースバイケース!そうそう……、担当者としてキミの“力”については簡単に聞いてはいるんだけど、それで言うとキミは……、うん、外回りが多そうだな!……まあ、私が外回り担当だから暫くは嫌でもついて来てもらうしかないんだけどね!」
「なるほど。」
「キミは外を走り回るのは得意?それもと苦手?」
「あー……、まぁ、必要な事であればやりますよ。」
何方かと言えば室内に籠っていたい側ではあるが、仕事であればやるべきことをやるつもりはある。軽く頷きながらそう答えれば、彼女は「……なんか、キミってクール系だね!」と笑っていた。
改めて執行部を出れば、まずは最上階から案内をすると言ったハンナに連れられるままエレベーターで階層を上る。
(こういうのって一番上は最後じゃないんだ……。)
なんて思いつつも、ぐんぐんと上る箱の中でモニターに映されていた数字が切り替わる様をぼうっと眺めていれば、隣に並んでいた彼女が口を開いた。
「普通に生活をしていれば一番上のフロアに用はないと思うんだけど、一応案内しておくね。」
そう言ってエレベーターを降りれば、廊下の先に向かう為にはセキュリティゲートを通る必要があるようで、彼女は自身の職員証をカードリーダーに翳してその先を行く。
その先の空間は暗い色味のタイルカーペットが敷かれており、壁には絵画が掛けられていることからも、先程までの執行部フロアや一階のロビーと比較すると格式が高い雰囲気があって、大きな組織の最上階とはなるほどこんな感じかと変な納得感を覚えたりもしたが。
「このフロアには極秘レベルが高い資料が保管されていたり、上の人たちが集まる大きい会議室があったりするんだ。」
「……極秘レベル?」
「おっと——、クール系ティーンエイジャーくんは冷静に突っ込むタイプなんだね。ただの例えだよ!要するに社外秘の重要な資料があるって話!……で、ここがその資料室の扉ね。入退室履歴が職員証で管理されているから、軽い気持ちで入室はしないこと!」
そんなことを話しながら、彼女と二人、真っすぐ奥まで伸びた廊下を歩いて行く。
そうして一番奥……のやや手前で足を止めた彼女はこちらを向いて、何故か声を潜めるようにして言葉を続けた。
「あの奥の扉が局長室ね。本当に滅多なことが無いとまず来ないと思うんだけど……。なんにしても、近づかない方がいいよ。あの人に捕まると話が長いんだよね~……。」
眉を下げてそう言った彼女の様子を見るに、どうやら彼女は局長のことを快く思ってはいないのだろう。(自分も最終面接で一度顔を合わせたことはあるが確かに腹の内が読めないような人物に思えたし、ああいったタイプの人を得意とする人の方が少ない気もする。)
「分かりました。」
兎も角、こういった先輩からのライフハック的アドバイスは聞いておいた方がいいだろうし、素直に頷いた。
「うん、じゃあこのフロアはこれくらいだね!」
そう言って踵を返した彼女に続こうとしたその時————、
ふと視界の端に映った絵画に目が留まった。
「……、」
見上げたそれは無彩色の少女像で、客観的に見て“美しい”と言える作品であった。
どこか目を逸らし難い空気感と既視感すらも感じたそれを見つめていれば、不意に扉の開く音がした。
「好きかい?それ。」
次いで、真横から聞こえた低い声に驚いてその場を退けば、声の主は愉快そうに口元を緩めながらこちらを見ていた。
「キミ、執行部の新人君でしょ。」
そう言った男を自分は知っていた。この組織<PSIB>の局長の……いや、名前までは憶えていないが、面接で一度顔を合わせている人物だった。
「あ……、はい。すみません、邪魔でしたか。」
「いや?全然邪魔じゃないけど——」
通路を塞いでいただろうかと壁の方へ身を寄せれば、男はそれにすら楽しそうに瞳を細くして眺めてくるものだから、若干居心地が悪い。適当に話を終わらせてハンナの方へと向かおうとすれば——
「きょ、局長……!うちの新人に絡まないでくださいっ!」
彼の言葉を遮るように割って入ったのは当の彼女だった。
「あれ、ハンナくんだ。どうしたの、わざわざ僕に会いに来てくれた?」
一本道の廊下だし当然彼女が居ることにも気が付いていただろうに、とぼけたように話すこの人の真意は分からないが、彼女が苦手がるのも少し頷ける。
「なわけ!——っあ、いえ、ええと……。き、気味の悪い言い方をしないでください!」
彼女は慌てた様子でこちらの背に手を添えれば、強制的にエレベーターの方へと押し進めながら声をあげて。
「あはは、元気だね。」
それでも楽し気な彼の言葉を背後に聞きながらも先程の少女像に感じた既視感の原因を考えていれば、やっと思い出した。
(あの絵、ウィルヘルムの……。)
彼の有名なルクレツィア・ウィルヘルム。恐らくあれは彼女の自画像だ。今やどこぞのタレントよりもアイコニックな彼女ではあるが、それにしたって傘下の会社にまで自身の像を飾るだなんて中々だな……なんて思いつつも廊下の突き当りまで歩けば、隣を歩いていたハンナの方から大きなため息が聞こえたのだった。
「はぁ……。あの人——ギラン局長って大抵ここ<局>には居ないのに、入職早々絡まれるなんて、キミって不運属性持ち?」
そうぼやきながらも昇降ボタンを押す彼女の疲れた様子を見れば、よっぽど苦手がっているのが一目で分かる。
「別に不運じゃないと思いますけど。」
そう言いつつなんとなしに後方を振り返れば、ガラス扉を一枚隔てた廊下の奥には先程自分が眺めていた絵画を見つめている局長が立っていた。距離感からしてこちらの動作に気付く筈も無いだろうが、自分の視線に気が付いたかのように彼の方もこちらを向いて、それから緩く手を振ってきた。
「どうかした————って、うわっ、こっち見てるよ!」
大げさに「ひえーっ」と言いながら下りのボタンを連打している彼女を眺めつつも、ひょっとするとここには変わったタイプの人しか居ないのかもしれないなぁと先を案じたのだった。
*
「よし、気を取り直して局内を案内するね!と言っても、私達が関わるような場所だけ搔い摘んでにはなっちゃうんだけど。」
「よろしくお願いします。」
改めて階を移動してやって来たフロアは見るからに電子機器の類が多く設置されており、中には大掛かりなサーバーであったり、有名なブランドの最新機器であったりが取り揃えられている場所だった。
「うん、じゃあまずはここ。通称“通信フロア”って呼ばれていて、大半は私たち執行部が関わるところじゃないんだけど————、重要なのはここ!」
何故か得意げに片手を広げて見せたハンナの肩越しにガラス扉を見れば、そこには『調査部』と記載されたプレートが取り付けられていた。
「私たちが外で任務をする時にサポートをしてくれたり、PSI関係のトラブルや事件事故なんかが起こった時には、情報収集や事前調査をしてくれたりする部署なんだ。」
窓越しに見える室内は、例えるならNASAの管制室のような造りだろうか。正面には大きなモニターが横並びに何枚も設置されており、そのモニターに向かってデスクが配置されている。そこで働いている職員らはヘッドセットを着用しており、皆それぞれ慌ただしく何かを話しているようだった。
「市民の通報から始まって、国外からの情報提供なんかも全部ここで受けてるみたいなんだ。で、その情報を精査して、対応が必要なものは私たち執行部に降ろしてくれるって訳。多分、局内で一番稼働してるのがここなんじゃないかな。まさにワーカホリックの集まり!」
「なるほど、……警察の緊急指令室みたいな感じなんですね。」
「そんな感じ!」
「それでね」と話を進めようとした彼女だったが、ふと足を止めれば一点を見つめ、それから小さく手を振った。
「……?」
つられるようにしてそちらを見れば、小柄な黒髪の女性がこちらへ向かって歩いて来ているようだった。
「メイリン、お疲れ様!」
「あら、お疲れ様ですハンナさん。そちらは……、」
メイリンと呼ばれた女性はこちらを見て、それから「ああ!」と一人で納得した様子だった。
「そちらの方がこの間言っていた“新人さん”なのね?」
「そうそう、新人のキースくん!」
「……初めまして、キース・ブランドナーです。」
嫋やかにほほ笑んだ彼女は頷いて、それから話を続けた。
「こちらこそ初めまして、私は美琳<メイリン>。あなた達執行部とは関わる事が多いと思うから、これからよろしくね。」
「よろしくお願いします。」
「それではハンナさん、私は仕事に戻りますね。」
「あ、うん!呼び止めてちゃってごめんね。仕事頑張って!」
「ええ、お二人も頑張ってね。」
そう言ってメイリンは調査部の室内へと戻っていった。
「彼女は現場に出ている執行部の職員にリアルタイムで情報を共有する音声オペレーターとして動いてくれることが多いんだ。顔を合わせることは少なくても接する機会は多くなると思うよ!……とまあ、ここのフロアはこんな感じだね。このまま一つ下のフロアに行こっか。」
そう言ったハンナに連れられて次に向かったのは“研究フロア”だった。
「ここには……あ、確か入職前のPSI検査で来たんじゃないかな。」
「はい。色々と測定とかされた覚えがありますね。」
彼女の言った通りここへは正式な入職前に検査があるとかで一度訪れたことがあった。自分の力のこともあって”目”を中心に色々と調べられたり、自分が把握している範囲の能力をヒアリングされたりと、色々と大変だったのが記憶に新しい。
「じゃあ大体分かってるかもだけど、ここにはうちの研究職も居るし、ウィルヘルムに勤めてる研究者も出向して来てるみたいで、PSI関連の研究を一手に担ってるって感じかな。あと……、PSI関係の事件があった場合には警察で言う鑑識みたいな調査もここでやってくれているね。頼りになる頭脳派チームって感じ!」
「なるほど……。」
「よくここに居る執行部のメンバーが居るんだけど、今日は……。」
そう言いながらあちこちの部屋を覗いてみて回っている彼女だったが、「あ!」と声を上げれば大きく手を振って。暫くすると、同年代若しくは若干年下くらいに見える小柄な女性がやって来たのだった。
「ロペさん、お疲れ様です!彼、キースくん!」
「キース……あっ、そう言えば今日だったわよね!ごめんなさい、アタシったらすっかり……!」
「大丈夫ですよ!ロペさん以外もみんな居なかったので!」
「ええっ、それって凄く印象悪いじゃない!」
慌てたように目を丸くしてこちらへ向き直った“ロペさん”は、人の良い笑顔を浮かべてこちらに片手を差し向けた。
「初めまして、アタシはアヴィ・アステローペ!アナタと同じ執行部に所属しているの。気軽にロペさんって呼んでくれていいわよ!」

そう言って、一層華やかに笑ってみせれば「よろしく!」と今一度差し出している掌を掲げて見せて。
「よろしくお願いします。」
自分の名前をと簡素な挨拶を添えて手を握り返せば、彼女は握ったままの腕をぶんぶんと上下に振った。
それから暫く当たり障りのない会話をすれば、研究室内から「アヴィさーん」と呼ぶ声がして、彼女は慌ただしくその場を去って行ったのだが。
「ロペさんは“ああ見えて”組織設立当初から執行部で働いている人だから、すごい先輩だよ!」
「設立当初ってことは今年で十年目ですか。……そんな風には見えないですね。」
遺伝子調整の普及により見た目で年齢が判断し難くなってはいるが(それでなくても女性の年齢なんて分からないし)、そのレベルを超えた年齢不詳さには恐ろしさすら感じるかもしれない。
「ロペさんのは“そういうPSI”だから!最初はビックリするよね~。」
「ああ、なるほど……。そういうのもあるんですね。」
それじゃあ次に行こうか!と踵を返した彼女の後に続けば、次いでやって来たのは先ほどの研究フロアと似た雰囲気の場所であった。
「ここは医療フロアで、若干さっきの研究フロアと似てはいるんだけど……、向こうはPSIの“研究”をする場所で、こっちはPSIによる人体への被害だったり影響に対して“実際に対応”をしている場所って感じかな。ちなみに今居るこのフロアから上3つが全部医療フロアだね!」
「なるほど……。」
そう言いながらも近場にあったフロアマップを見れば、小さい規模ながらも一般的な病院の外来から入院病棟にも似た造りまであって、医療機関と言って差し支えないような様子であった。また、この医療フロアは他のフロアとは違い一般市民の出入りもあるようで、患者と思わしき人物やその家族の姿が散見された。
「……正直な話、PSIが絡んだ怪我や症状って、単なる医療の介入で治せるものとそうでないものがあるんだ。」
そう言いながら彼女が案内をしてくれたのはいくつかの個室が連なった場所で、覗き窓から見える限りでは室内のベッドに人が横たわっているようだった。幼い子供のような人から年配の人まで居て、おおよそ人間の身体構造では説明がつかないような姿かたちをしている者まで居た。
「ここに居る人達は皆、PSIが原因で何らかの健康被害を被っていたりだとか、違法な遺伝子調整の結果後遺症を患ってしまった人だったりとか……、普通の病院では対応が難しい人たちなんだ。そういう人たちに対して無償で医療を提供しているのもPSIBの役割の一つって訳だ。」
「PSIが原因……、それって、自分に発現したPSIでってことですか?」
「うん、私たちみたいに”使える形”で発現したPSIはいいんだけど、そうじゃない……、”悪い副作用”でしかない異能力だってある。あとは、PSI犯罪被害者の後遺症でってケースもあるね。PSIって現代医学、科学で証明できる範疇を超えているから、それによってもたらされた人体への異変もまた分からないことだらけなんだ。だから、最先端の機関であるここで研究をしつつ、治療や対処も頑張ってるって感じかな……。」
「……事件の被害者はまだしも、望んで受けた遺伝子調整の結果、ですか。それに違法調整の副作用まで……。難しい話ですね。」
全ての医療行為には副反応が存在するし、遺伝子調整だって例外ではない。当然ウィルヘルム・コーポレーションはそのリスクを公言しているし、尤も管轄下の施設で調整を受けた場合の副反応発症率はごくごく低い確率だ。一方、管理外の違法調整ではその発症率が格段に高くなるといった問題があるらしい。これは周知の事実であるが、それでも安価な違法調整を受ける人は一定人数存在しているのもまた事実であった。
「ほんと、難しい話だよ。……ただ、研究チームのみんなは副作用を研究して、いつか限りなくリスクのない遺伝子調整を開発できればと思っているみたいだから、会社にとってはマイナスばっかりじゃないのかもだけど……。」
そんなことを話しながら簡単に全体を案内してくれた彼女は、フロアの一角にあった休憩所へと足を向けた。
「一応案内しておきたかった場所はこれで全部。さーて、一旦休憩しよ!」
そう言って自販機に立ち寄った彼女は缶飲料を二つ買えば、その一つをこちらに向けた。
「はい、どうぞ。」
「……ありがとうございます。」
長椅子に腰を下ろした彼女は小気味の良い音を鳴らしてプルタブを引き上げれば飲み物に口を付けて、それから瞳をこちらに向けた。
「……この医療フロアって他の場所とちょっと違ってたでしょ。……正直、どう思った?」
「それは……、どういう意味で聞いているんですか?」
どういった意図で投げられた問いなのか分からず思ったままを言葉にすれば、苦笑を浮かべた彼女は、迷っているとも困っているとも取れるような、何とも言い難い表情で話を続けた。
「……入職初日に見せるものじゃなかったかもしれないけど、別に上から止められてもいないし、あなたにはしっかり理解をしておいて欲しかったんだ。遺伝子調整もPSIも世間一般では素晴らしいもので、私たちみたいなPSIを持つ人間を“Newman”なんて呼んだりもする。新人類なんて、すごい格好いい響きじゃん?……でも、私たちが関わるのはその歪の部分が大半を占めてる。」
「歪、ですか。」
「うん、ここの現状だって、公にはしていないことでしょ?というか、公にしないのが私たちの仕事の一部でもあるし。」
「……確かに、今日までPSIBにこういった場所があるとは知りませんでした。」
「だよね。……あー、えっと、暗い話をしたい訳じゃないんだ!医療も研究も日々進歩しているし、ここでの治療介入が必要なケースは全体で見るとごく少数だし。ただ……、後から色々知って、”思っていたものと違った“ってなって欲しくなくって。」
「今更だけど」と困ったように笑っている彼女にも思うことはあるのだろう。会ったばかりで人となりをよく知りもしないが、そう言った彼女の横顔には若干陰りがあるようにも見えた。
「……寧ろ、俺はそういった所を知りたいと思って入ってるので、そこは問題ないと思います。」
「……え、そうなんだ?」
意外そうに瞳を瞬かせた彼女に頷いて、言葉を続ける。
「はい、いや、正しくは力<PSI>について知りたいって言うか……、そんな感じですけど。」
「へえ…………、そっか。それならいいや!」
からりとそう言った彼女はぐい、と缶飲料を煽ればそのまま空き缶をゴミ箱へと投げ入れて「要らない心配だったね」と笑った彼女は腰を上げた。自分もそれに倣って飲み干せば、二人そろって休憩室を後にしたのだった。
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そうしてフロアのエレベーターホールまで歩いていれば、不意に騒々しい声が聞こえてきて視線がそちらに引き寄せられた。
「はいはい、嫌がらないでね。」
「ニーモさん、無理はよくないです。」
「む、無理はしていな、うおあああがっ、————、」
男性二人と女性一人、客観的に見て目立っている筈なのだが、周囲の人々はまるでいつもの事とでも言いたげに無視を決め込んでいるから不思議なものだ。
「あっ、丁度いい所に!」
そんな三人組を見たハンナは顔を明るくして、こちらへ手招きしながら騒ぎの渦中へと向かって行った。
「三人ともお疲れ様です!」
「ハンナさん、お疲れ様です。」
「お疲れ様。」
黒髪に明るい黄色の瞳をしている落ち着いた女性と、穏やかそうな声色に反して怪しい雰囲気を纏っているサングラスの男性、そして、そのすぐ近くにあった椅子の上でうなだれているくせ毛の男性は口の端から赤黒い何かを垂らしながら顔色を悪くしていた。
(あれは……、血液?)
「ああ……、その子が新人さん?」
そう言ったのはサングラスをかけた男性で、彼は自分の手元に出来た傷を慣れた様子で処置していた。
「そうです!丁度局内の案内を終えたところで……、キースくん、こっちの三人も私たちと同じ執行部の仲間だよ。」

「どうも初めまして。俺は張鋭。好きに呼んでくれたらいいよ。」
「……私はエイミー・C・カルロッタです。」
そう言って穏やかに笑ってみせた張に対して、隣に並んでいたエイミーの方は表情を全く変えないまま淡々と話すだろう。
「キース・ブランドナーです。よろしくお願いします。」
「よろしく。俺は“治療”が専門だから、怪我をすることがあれば無理せず頼ってね。ほら……、ニーモ、キミも新人さんに挨拶し——、」
そう言った張は先程から顔色を悪くしている男性の目の前でひらひらと手を振って、「ダメだ。反応がない。」と、困ったように肩を竦めた。
魂が抜けたようになっていたくせ毛の男性はどうやらニーモというらしい。口から零れ出ている血液のようなそれが気になって仕方がないが(本当にそうであれば重症そうだし)、周囲の面々は落ち着いた様子だし、恐らく大事はないのだろう。
「……あはは、ニーモくん、大丈夫そう?」
「怪我はちゃんと治した筈だけどね。」
「そもそも怪我というのも足の捻挫ですが……。恐らく血液の味で気分を悪くしたのでしょう。」
心配そうにのぞき込むハンナに対して張は苦笑を浮かべていて、エイミーは淡々と現状を分析しているようだった。三人の落ち着きようから、やはりこういった光景は日常のことなのだろうか。
それにしても——
「血液の味……?」
こちらの溢した言葉をしっかりと聞いていたのだろう張は頷いて、「ああ、俺のPSIなんだけどね~、”俺の血液を飲んだ”相手の治療を行うことができるんだ。だからほら、他人の血液を経口摂取って、心理的に中々……でしょ?」
「……へえ、そういう力もあるんですね。」
「張さんには悪いけど気持ちは分かるよ……、でもニーモくん、気をしっかり……!」
「う……、み、水…………。」
「私が持ってきます。」
颯爽と去って行ったエイミーを見送りつつ、残された自分を含む三人は顔を見合わせ。
「あはは……、ニーモくんとの挨拶は後にした方が良さそうだね。」
「ごめんね、その内違った形で力が使えるようになればいいんだけど。」
「いえ!今のままで十分助かってますから!じゃ、私たちは先に執行部へ戻っていますね。」
「うん、こっちも落ち着いたら戻るよ。」
それじゃあと声を掛け合えば、一旦解散といった様子でその場を後にすることになるだろう。再びエレベーターに乗り込み執行部のフロアを行き先に指定したハンナは笑顔でこちらを向いて。
「オフィスに戻ったら誰かいるかもしれないし、そうじゃなかったら————、先ずはお昼ご飯にしようかな!」