chapter.1-1
SIDE:Hannah
PLACE:Wilhelm Corporation本社
20XX年6月。現在時刻、午前七時三〇分。
ここ――PSIB執行部の朝は早い。いや、昨夜から働き詰めでそのまま朝を迎えたのだから、早いも何もないようなものなのだけど。
最初に発現者が確認されてから九年と少しの時間が経過しているものの、未だに解明されていないことが多いPSI<サイ>。これを巡ったありとあらゆる事案の対応を私たち——”対PSI専門捜査局”通称PSIB——がひとえに担っているのだ。その中でも更に、現場対応に特化して日夜世界を股にかけ駆け回っているのが私の所属している部署だった。
超エリート社会人の先輩として、激務中の激務であるこの部署で長くやっていく秘訣をキミに教えよう。それは、図太くいることで————
「もしもーし、ハンナ、大丈夫?」
「――ッは!……ね、寝てないですよ!はい!」
ガツッ
「いっ……、」
唐突に聞こえた声に驚き、弾かれたように呼ぶ声がした方へ顔をようとして、勢いあまってデスクの脚に脛をぶつけた。……痛い。
じいんと広がる鈍痛に眉を顰めながら呼び主の方へ瞳を向ければ、そこに居たのはアヴィ・アステローペだった。彼女は「大丈夫?」と苦笑を浮かべながら両手を腰に当てていて、なんだか学生時代に毎朝自分を起してくれていた母親を思い出すような懐かしさすら感じたのだった。……っと、そんなことに思いを馳せている場合ではない。入力途中だった報告書には謎の文字列が打ち込まれていて、どうやら寝落ちしてしまっていたことを察した。
「…………大丈夫です!はい、報告書も凄まじく素晴らしい進行具合ですよ!」
「あはは、誤魔化すにはちょーっと厳しいぞ?」
彼女はそう言いながら自身の口元を人差し指でとんとんと叩いて見せて、それにつられるようにして自分の意識も口元へ行けば————、何だか湿っている気配がした。
いい大人が涎を垂らして寝落ちするなんて、さしもの超エリート社会人の私だって恥ずかしい。
「…………、」
ワイシャツの袖口で口元を拭えば、彼女は変わらず人の良い笑顔を浮かべたままこちらを見ていて、余計に居た堪れない気持ちになってしまって。
「お見苦しい所を…………。」
「いやいや、その様子を見るに昨日から寝てないんでしょ?無理しない方がいいんじゃないかしら。アタシは仮眠をとらせてもらってるし、報告でしょ?変わるわよ。」
からりとした笑顔を向けてくれる彼女はまるで救いの慈悲を与えてくださる聖母様のようで、時に自分に対して超~甘々な私は祈るようなポーズを取って彼女を見つめたのだった。
「ろ、ロペさ~ん……、あなた様ってひょっとすると女神様?」
「なによもう、それは言い過ぎ!ほら、さっさと休んできな!」
そう言いながら近場の椅子を引いて私の触れていたノートパソコンを自分の方へと向けた彼女は、見た目には幼く映るその姿よりもずっと頼りになる大人の余裕があって。
「ロペさん……、本当に感謝感激です……。白状すると、もうそろそろ魂が抜けるんじゃないかと思っていたところで……。お言葉に甘えさせていただきますね。」
「はいは~い!気にしないで!」
ひらりと手を振ったアヴィに頭を下げれば脱ぎ捨てていたジャケットを回収し、そのまま宿直室へと向かおうとしたその時————エレベーターホールの方向から音もなく現れた彼——飯豊響雄——とバッチリ目が合った。
こちらを見た飯豊はまるで“丁度良いところに”とでも言いたげに、その伏し目がちな瞳を開いて、そのまま真っすぐこちらへ歩いて来たのだった。
(おっと……、休息が遠ざかる予感……。)
若干嫌な予感を覚えつつも挨拶をすれば、向こうも軽く会釈をしてから口を開き。
「……おはようございます、ハンナさん。貴方に話があるので今から主任室へ来ていただけますか?」
覇気のない様子でそう言った彼は私たち執行部の主任で、そんな主任から直々にお呼び出しをされるということは……、つまり、どういうことだろうか。
「話ですか……?勿論大丈夫ですけど……、私、何かやらかしてますかね……。」
名指しで呼び出しをされることは滅多にないもので、背筋を冷やりとしたものが伝いもするだろう。
「いえ、そういった類の話ではありませんが……。」
「そうなんですね?それなら良かったです……。てっきりこの間の水道管破損の件かと————、」
「…………その件は後にしましょう。」
「あっ、……えっ、あ…………、へへ……。」
先日の任務中に“必要があって”水道管を撃ち抜き、その結果辺り一帯を半日間断水状態にしてしまったのだ。てっきりそのことでお叱りを受けるのかと思っていたが、今回は違った話なようだった。余計なことを口走ったようで誤魔化しついでに愛想笑いを浮かべてみるも主任には効果なしのようだ。惨敗。
「……はぁ、ではついて来てください。」
「はい…………。」
常日頃困ったような顔をしている主任が一層眉を寄せたものだから、流石に居た堪れなくなった私はすごすごと彼の後を追った。
今しがた出て行ったばかりなのにも関わらず直ぐに戻って来た私を見たアヴィは「あれ~?どうしたの?」なんて言いながらも何かを察した様子で手を振ってくれて。そんな彼女に癒されたものだから思わず手を振り返してみれば、再びどこかからため息が聞こえてきたのだった。
先に主任室へ入っていた飯豊さんは椅子に腰掛けていて、「どうぞ、掛けてください。」と、片手でソファを促して。そのままデスクの横に配置されているソファに腰を下ろせば、さぞや込み入った話が始めるのかと背筋を伸ばした。
「ええと、主任、話とは……。」
「……今年も一人、新入職の職員が来ます。その者の教育担当を貴方に任せたいのですが——」
「えっ?」
想像していた話と全く違った方向性の話題には思わず素っ頓狂な声が漏れるが、気にした様子のない主任は話を続けた。
「あなたも今年で6年目になるでしょう。諸々を加味して、私も上も、今回は貴方にと。」
「えっ、教育担当……?わ、私が……!?」
「ええ……、どうでしょうか。」
上司なのだから言いつけるだけで構わないだろうに、どこか様子を伺うようにそう言うのは彼の性格故なのだろうか。兎も角、思ってもいなかった提案——それも嬉しい方向に——には思わず前のめりになってしまって。
「是非、任せてくださいッ!このハンナ・スコット、必ずやり遂げてみせます!!」
「あ、はい……。やる気があるのはよろしいですね……。」
片手でこぶしを作れば、自分の胸を叩いて見せたのだった。
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それから暫くの時間が経過し、20XX年7月某日————。
気だるげな空気を纏った青年は、皺のない真新しいスーツに息苦しさを覚えつつも空を見上げた。
聳え立つビル群の奥に覗き見える空は澄んだ青色をしていて見た目には涼しそうであったが、30℃近い気温にコンクリートの照り返しも相まって茹だるような暑さだった。
(流石に昨日は早寝したんだけどな……。)
流石の自分もゲーム仲間に断って早めに切り上げたはいいが、夜更かしに慣れ切った身体は寝る時間とやらを誤って記憶していたらしい。早寝をした気になっていたが、思い返せば全然早く寝られなかったんだった。

記念すべき初出勤日には相応しくない気怠さを抱えれば欠伸を噛み殺しっつも、自宅を出た直ぐの所でスマホの地図アプリを開けば目的地を入力する。少し前に借りた新居の周辺はなんとなく把握したが、慣れない土地で道に迷って初日から遅刻をするなんてことは避けたいもので。
「あー……、向こうか。」
少し歩けば目も醒めるだろう。そう思った青年は、眉間を揉みながらゆっくりとした足取りで歩きだしたのだった。
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所変わって捜査局。
緊張した面持ちで局内の廊下を歩く茶髪の女性ハンナ・スコットと、その隣を歩いていたのは”冷ややか”とも言える程に落ち着いた空気を纏った女性、タチヤーナ・ウラジーミロヴナ・モロゾワだった。

「ハンナ、大丈夫。新人は貴女を取って食ったりはしない。」
「……ターチャ!」
コミュニケーション能力には一定の自信を持っているものの、今日に限って珍しく口数の少なかったハンナはタチヤーナの言葉に歩みを止めたかと思えば、勢いよく彼女の方を向き直り、自分よりも少しばかり低い位置にあるその顔に自分の顔を寄せた。
「……近い。」
「だって、だって……!新人さんって、十九歳の男の子なんでしょ!?ティーンだよティーン!」
「それが、どうしたの。」
氷のように薄水色の髪が揺れて、詰め寄られた彼女は一歩後ろに下がりつつも話を聞く気はあるようだ。
「わ、た、し、今年で二十八!十代<ティーン>の若者と上手くやっていける気がしないよ~!ねえ、今時の若い子って何が好きかな?……あっ、ニーモくんに流行ってるって聞いたアプリは入れてみたし、自分でもいくつか調べてみたんだけど——。」
物凄い勢いでまくし立てるハンナに対し、若干引いたようなタチヤーナは溜息を溢して口を開いた。
「別に、友人になる必要もないんだから……。」
「えーッ!でもターチャはニーモくんと上手くやってるじゃない!……って、二人は年齢も結構近いか……。」
詰め寄ったり項垂れたりと忙しいハンナを見れば、タチヤーナはゆっくりと言葉を続ける。
「……年齢よりも、ちゃんと相手と向き合うことが大事。……きっと、そうでしょ?」
澄んだ声でそう言った彼女は、ハンナから見れば行くばかりか先を行く大人のように見え、なんだか若干悔しいような、眩しいような気がして。
「ターチャ……、うん、うん!そうだよね、きっとうまく行くよね!」
「……頑張って。」
励ましをどう受け取ったのかは分からないが、うお~!と元気な声を上げながら片腕をぐるぐると回していたハンナを見れば、タチヤーナは若干方向性が誤っている気がしないでもなかったのだった。