
chapter.0-2
SIDE:Ghislain
PLACE:Wilhelm Corporation本社
霧が立ち込めるフォギー・ボトムの一角、カントリーな風景の中で一等近代的な異質さ放つそのビルは、眠りに落ちる街に反して眼に痛いほどの白光を放っていた。
(まったく可哀そうに。OSHAも手を出せないのだろうね。)
慣れた動作でカードキーを翳せば無人のフロントを通り過ぎ、奥へと足を進めた。
時計の針はとうに日付の切り替わりを教えてくれているだろうに、道すがら目に入るオフィスはどこも日中と変わらない稼働をしているようで。労働時間?そんなもの“生きている時間の全てだろう”なんて言い出しそうな具合のここ<ウィルヘルム・コーポレーション本社>では、こんな風景が日常だ。傘下のうち<PSIB>とて同じ話ではあるが。
そのまま真っすぐエレベーターホールへと向かえば、丁度誰かが呼んだ箱が到着していたようで「失礼」と、そう声を掛けて速足で乗り込んだ。この会社はこんなところまで上質らしく、殆ど無音かつ無振動で滑らかに上昇してゆく視界。透明なガラス越しに見える景色は瞬く間に遠いものとなっていくのだが、そんな事にさえどこか哀愁に似た感情を覚えるのは、さしもの自分とて色々と参っているのだろうか。
*
————チン、
潔癖なほどに無機質な空間には似つかわしくない軽い音が鳴って扉が開く。最上階であるこの階層には一部屋しかなく、自分の目的地もその場所に違いなく。
よく磨かれた床材をエナメルの革靴が打ち鳴らす音のみが暫く響いて、何枚かの扉を潜りようやくたどり着いたのは“社長室”だった。
「やあ、こんばんは。」
暖色の間接照明のみで照らされているだだっ広い部屋に声を投げれば、きゅ、とゴム材と床が擦れる音がして。
「ディナーの時間に来るようにと伝えたのに。随分と遅かったですね、ギラン。」
白い絹糸のような髪が揺れて、彼女はすい、と瞳を細めて見せた。
「キミが“仕事が終わってからで構わない”と言ったから、素直にお言葉に甘えただけさ。」
「そうですか。」
「んー……、そう怒らないで下さいよ、Mistres”ご主人様”。」
そう言ってこちらも笑顔を返せば、彼女は冷めた瞳でこちらを一瞥し、車椅子を器用に操作してさっさと奥へと行ってしまった。
「あれ、お姫様の方が良かったかな。年増なくせに。」
“あえて聞こえるだろう声量”でそう言いつつも、彼女の後を追う。
何度か訪れたことのあるこの空間だが、客品用のソファやゴシック調の家具、端に置かれた蓄音機やらの何もかもがインクで塗られたかのように黒色で、どちらかと言えばインダストリアルなスタイルの方が好みな自分にとってはどうにも息が詰まる。首元を緩めつつ足を進めれば、彼女は執務用デスクの奥にある応接スペース(と言うには広く豪奢な空間だが)で待っていた。
「折角ですから食事でもと思って用意させていましたが、冷めてしまいましたね。」
さして気にした様子のない彼女はカトラリーを片手にそう言って、何らかの肉の切れ端を突いた。
お行儀の悪さも”いじらしさ”に変えてしまえるだけ、全くもって造形美とは憎いものだ。
「気持ちだけ受け取っておくよ。もの凄く残念だけど、夕食は済ませてしまったんだ。その変わり——にはならないけど、これをキミに。」
薄っぺらな笑顔を張り付けたまま、手にしてした紙袋から中身を取り出す。
「シュヴァリエ・モンラッシェ。加えて二○××年もの。確か好きだったでしょう。」
そう言って、片眼を伏せて。
「……グラスはそこの給湯室に。」
「はいはい、仰せのままに。」
実のところ彼女がこれを好んでいたかどうか曖昧だったのだが、どうやら当たりだったようで何よりだ。
白ワインの最高峰と言われることも多い緻密で透明なその液体を注げば、微かなアルコールの鼻を突く香りと、それを上書きする程のバターを思わせる芳醇な樽香が鼻腔をくすぐり。グラスは当然二つ用意して、これを手土産にしてよかったなあなんて自分本位なことを思ったりもするものだ。
「どうぞ。」
彼女はいつの間にか窓際へと移動していたようで、グラスの片割れを差し出せば、お礼の言葉一つもない様を横目で眺めつつ口を付けた。彼女も物言わぬままそれに口付ける。――そう、乾杯なんてする仲ではないのだからね。
純度百パーセントのシャルドネが凝縮されたそれは、例えるなら蜂蜜やアーモンド、熟れた果実のように豊かな香りに満ちていて。かのアレクサンドル・デュマが『ひざまずいて頭を垂れて飲むべきワインだ』なんて称えたことも納得できる味わいだ。
「ねえ、ルクレツィア。キミは覚えていないかもしれないけど――」
「二○××年は私とあなたが出会った年。……そう言いたいのでしょう。」
「あれ、意外だな。気が付いていたんだ。」
「ええ。随分と“気味が悪い”ことをすると思いましたから。」
ここら一帯で一番の高層ビルがここだから、窓ガラス越しに入り込む光は月光のみで。薄明りに照らされた彼女はある種の畏敬すら覚えるだろうその顔をこちらへ向けた。
「そこは“ロマンティック”だと評価して欲しいところだね。」
「ロマンスの欠片も持ち得ないでしょうに。」
「キミだって。」
グラスの縁に再び唇を落とし、くい、と軽く煽る。やはり美味しい。どのような相手と酌み交わす酒であったとて、美味い酒に罪はないのだ。
「それで、態々僕を呼んだ理由は何かな?……まさか、純粋にディナーを楽しみたかったわけじゃないでしょ。」
そう問えば、彼女の唇はゆるりと孤を描いた。
「何もかもに筋の通った理由を求めるのは、あなたの美点であり欠点でもありますね。それに……、あなたの方が私に話があるのでしょう?」
だから声を掛けたのですよ、と。瞳を細めてそう言った彼女の微笑みには薄ら寒さを感じずにはいられない。そういうPSIでも無ければ心の内を透かすことなど出来ないだろうに、明け透けにされたようで溜息交じりに肩を竦めた。
「話……、ね。そう、確かにキミとは一度意見交換をしておいた方がいいかなあとは思っていたさ。」
「まるで、初めて試みるような言い方をしますね。」
抑揚のない声でそう言った彼女を一瞥し、窓ガラスの方に向き直った。そこには当然、自分が映っている。それなりの社会的地位と権力と金を得た、しかし、それだけの人間だ。半透明のそれの向こう側には、まばらに照らされた夜の街がある。この地区でビル群の夜景は見られないけれど、それでもレストランやバーなんかは沢山あって、この時間帯でも温かな生活の明かりは綺麗だったりするものだ。あの灯一つ一つが人の生で、この街……いや、ひいては世界を構成する礎の欠片に相当するかけがえのないもので。
それを——、
「ルクレツィア、……キミは、夜景は好きかな。」
「好きでも、嫌いでもありません。ただ、客観的に見て美しいとは感じます。」
そう言った彼女の瞳は冷めた色をしていて。
「……ああ、僕も綺麗だと思うよ。知っているかな、ここから見える——丁度あの辺り。あそこにあったジャズバーね。そこのマスター、この間PSI所有者間のトラブルに巻き込まれて亡くなったんだって。」
「そう。」
「後を継ぐ人が居ないとかで、店も閉めてしまったようでね。好きだったんだけどねえ……、あそこのグリルチキン。」
「それは残念でしたね。」
彼女がこの話題にさして興味がないのだろう事は分かる。……分かっているのだけれどね。
硝子一枚隔てた向こう側、この街——いや、この世界で何が起こっていようとも、その音が防音性に優れたこの部屋に届くことは無い。今この時にだって、穏やかなルーフトップバーのすぐ脇道にはサイレンを鳴らした警察車両が駆け回っていると言うのに、いつしかそれに慣れてしまった住民も、なんてことない顔をして見下ろせてしまえる彼女も恐ろしいものだ。尤も、彼女にとっては全てが粗末な雑音でしかないのだろう。
そんなこちらの考えをまたしても透かし見たように、彼女は口を開く。
「分かっています。ギラン、あなたは今の世界が嫌いなのでしょう。……しかし、それはあなた自身が持ち得る者だからこその傲慢ではありませんか。」
横目に見た彼女は、眼下の町を無表情に眺めている。
「生まれ持った定めに一生を苛まれる者の気持ちをあなたは知らないでしょう。そういった定めや柵に捕らわれ自由に羽ばたくことのできない世界より、自分自身で生まれ変わるチャンスを得ることのできる今の世の方がよほど平等で公平です。……今はまだ、ある程度の金銭が必要ではありますが、その点においては時間の問題です。」
端的に言おう。涼しい顔をしてこう言ってのける彼女が、この美しい少女の皮を被った女が、自分は嫌いだ。他者の幸福など微塵も興味がないと言うのに、何故これほど滑らかに”美しい思想”を語れると言うのか。
「キミは創造主にでもなったつもりなのかな。」
「創造主?……いいえ。私は主がお創りになられた人間の欠損を補ったに過ぎません。尤も、主がたった七日間の片手間に我々を創ることがなければ、必要のなかったことかもしれませんが。」
そう言いながら、グラスを持たない片手を宙に浮かせ、まるで指揮を執るかのようにすい、と指を滑らせる。
「攪拌ですよ。清濁も快不快も、正義も悪も、やがて等しく混ざり合う為には一度こうしてやる必要があるでしょう。それに、先駆けになるものはいつの時代も石を投げられるものだと理解しています。……故に、あなたが私に石を投げると言うのであれば、それも甘んじて受け入れましょう。」
愉快そうに唇を歪めた彼女はマドラーでかき混ぜるかのようにして人差し指をくるくると回した。
「――しかし、少しだけ寂しくもありますよ。あなたとて、一度は志を共にしたひと。何があなたを変えたのでしょうか。」
そう言った彼女は寂しそうに微笑んだ。これだってきっと、他者から見れば酷く庇護欲を掻き立てられる様だろうが、僕の意訳を交えて表現するのであれば”下卑た笑み”と言わざるを得ないんだ。(我ながら実に偏向的な表現だね。)
「……分かってる。僕だって”褒められはしないこと”をそれなりにしているし、善人じゃない。」
それでも、自分のことを棚に上げて言わせてもらえばきっと彼女は人間性の根幹が破綻している。目指すものが他者にとってどれだけ歪なものであっても、自分が“よい”と思えばそれが正解になるし、事実としてその歪を“あたかも正しい形”として見せるだけの力が備わっている。
そして、自身の内に抱える歪ささえもを輝きやカリスマ性に昇華させることができる、とことん厄介で、世界に愛された人間。……一時期は自分とてそんな彼女に惹かれていたのだから失笑ものだ。
「とは言え、僕はキミのやり方が嫌いなんだ。もの凄くね。」

手にしていたグラスをテーブルに置いて、改めて彼女の方を向き直った。夜空を背景にした彼女は空のグラスを手にしたまま、意外そうに大きな瞳を瞬かせていて。
「あなたにとって、あの子達は単なる消耗品に過ぎないのだと思っていましたが。」
「そうだとしても、キミが手を付けていいものじゃなかった。」
「ふふ……、最初に差し出したのはあなただと言うのに、都合のいいひと。」
「……、」
「そう怖い顔をしないで。……今も昔も、私はあなたの気に触る事ばかりしているようですね。」
そうだと思うならば一度くらい詫びたらどうなんだ。なんて、そんなこと言いもしないけれど。
「ねえ、ルクレツィア。……僕たちは手にした利権の代わりに、変えてしまった全ての為に、責任を負う必要があると思わないかい。」
後ろ手に片手をジャケットの下に滑り込ませて。
きっと、彼女は全てを悟っているのだろう。それでも尚、普段通りの調子でいる様さえも……、そう、ただ気に入らないんだ。
「全てが自分の思い通りにならないと気が済みませんか?ギラン。」
彼女はまるで自身が非力で弱い存在であるかのように小首を傾げてみせて。こんな時でも、さらりとほどけ落ちる白銀の髪は美しかった。
「そうさ、僕は我が儘なんだ。分かるだろ。」
“それ”を彼女に向けて——
「……!あなた、その瞳──。……ふふ、矢張り、どこまで行っても、私とあなたは“同類”ですよ。”自分の為に”容易く他者を犠牲にできるひとですもの。」
————パリン、
グラスの割れる音が響いた。